紺野昌彦氏との出会い

ASEAN経済通の紺野昌彦氏との出会

 

紺野昌彦氏との出会いは前回のブログに書いたように、かれこれ25年ほど前にさかのぼる。筆者が大学を卒業し、初めて企業に就職したての事だと記憶しています。

彼は当時はまだ会社勤めのサラリーマンでありながら、既に副業で輸入代行業というビジネスと、飲食店のコンサル業を営んでいたのを今でも鮮明に覚えいます。

 

決して紺野昌彦氏を持ち上げ応援する趣旨のブログではありませんが、テスト記事として数回彼について書いてみたいと思います。

私よりも彼は年下でありながら、会社勤めで社会人としては先輩で、そして既に副業で複数の事業していました。

学生から新社会人になったばかりの私には、それが斬新で未知の世界に感じ当時は相当
輝いて見えていました。


同世代(アラフィフ世代)の皆さんも記憶にある方もいらっしゃるでしょう。

当時は日本は不動産バブルが崩壊したばかりで、好景気の余韻も影を残し世間はポケットベルから携帯電話(当時はアナログ回線)にシフトした時代で、巷には携帯電話のブローカーや当時流行りだしたばかりのPHSなどの勧誘を生業とした人も多く、少しでも所得を上げる努力は当たり前の時代でもありました。

紺野昌彦氏のブログで出てくるASEANの国々や中国は、そんな懐かしい時代を彷彿をさせる何かを感じるにはいられません。

そんなグローバルと呼ぶにはまだ早い時代に、彼こと紺野昌彦氏は既にアメリカを始めタイなどと貿易を始めていました。

1992、3年頃だったでしょうか。


私も一度、彼がアメリカに仕入れに行く時に同行した事がありました。
確かアトランタ、ダラス付近だったと思います。
当時はインターネットの普及もなく、まだ全てはアナログの時代。
アメリカとの通信は当時TELXと呼ばれる通信手段もしくはFAXが主流で、これらを駆使して入念に業者へのアポを取っていたのを覚えています。

同行したのは、アメリカのアウトドア用品メーカーや、アパレルメーカー。

当時彼は既に東急ハンズなどへの販路も持っており、アウトドア用のライトやグッズを卸売販売していました。

そしてアパレルに関しては、当時流行であったMA-1と呼ばれるフライトジャケットをアルファー社と呼ばれる、アメリカ軍の官給品会社の卸売業者から仕入れ、大阪のアメリカ村神戸元町の古着店やアパレルショップにも卸売していたのです。

記憶では20か21歳頃だったように記憶しています。

今でこそ起業という概念は当たり前になっていますし、学生起業家という言葉も目新しくもありませんが、この時代(今から25年以上前)に既に彼こと紺野昌彦氏は既に学生起業家として友人関係の間では君臨していました。

聞けば紺野昌彦氏の起業はちょうど17歳の夏との事でした。

25年が経過した現在の彼は、自身の会社が既に4社あり、アメリカの上場企業の幹部の名刺も持ち、7カ国でビジネスをし行っている強者となっています。

紺野昌彦氏のブログ

ただ残念なことは一度大きな営業妨害を受けており、年商を11億円を超えてた時点で日本の上場企業に会社をバイアウトした事でしょうか。

それについてもまた詳しくヒアリングした事がありますので書いてみたいと思います。

テストブログつづく

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